『高校教科書ページ12%増』(読売新聞)

 前回の朝日新聞と同じ日の記事を読売新聞から拾ってみました。

 一面は「ゆとり教育」からの脱却ということで似たような記述でしたが、10面の解説記事は読売の方が深掘りしており好感が持てました。曰く、『難・易二極化 高校教科書 学力格差に対応』

 例えば英語に関しては
 ・3年間で教える単語数が500増え、一気に30年前の水準に戻る
 ・新指導要領の「授業は英語で行うのが基本」という文言に則り、日本語のほとんどない教科書も登場
 ・中堅都立高校の教諭の話として「生徒が理解できないものを英語で説明しても時間がかかるだけ」と懸念
 ・ある教科書会社の営業担当の話として「英語の学力格差はすさまじく、先生の要請を受けて作った」というアルファベットの書き方から始まる教科書を紹介

 など、「ゆとり教育返上」と言葉で言うはたやすいが、高校生の学力格差を考えると現場の苦悩は深い、という記事になっています。

 高校ごとに学力格差があるので自校のレベルに合った教科書を選択するのはもちろんですが、クラス内で格差がある場合これをどう解消するのか? 教科ごとに習熟度別クラスを編成して取り組む? 演習を中心にコンピュータのコンテンツを活用する?

 教科書「で」教える先生方の力量が問われていると同時に、授業の方法論、学校教育のフレームワークまで見直さなければならないと感じました。

『13年度から脱ゆとり、仕上げ』(朝日新聞)

 『高校教科書ページ1割増』という朝日の見出し、副題をタイトルにしてみました。

 さて、「おちこぼれ」救済の名のもとに教科書がどんどん薄っぺらになっていった「ゆとり教育」の見直しが、13年度で小・中・高のラインナップが完了するということで、これは意味のあることだと思います。
 新しい教科書では『知識も活用も』(朝日新聞、21面の関連記事)と意欲的な取り組みも見られるようですし。

 ただ、文句を言うわけではないですが(文句言ってるって(笑))、前向きな気持ちは伝わるが方向性が違うだろうという部分も散見されます。このあたり、先日のエントリ『「特典」への違和感』とも重なる部分があります。

 朝日の記事によると、英語の教科書に「AKB48(開隆堂出版)」「キティ(東京書籍)」が登場、「動画の原理を示すためのパラパラ漫画を全ページの隅に掲載(日本文教出版)」といった工夫も見られるとのこと。

 小学校の教科書に「ドラえもん」や「アトム」のイラストが載ったのを見て、「あ、教科書会社の負け」と思った人間から見れば、キャラクタの持つ誘因力に頼っているうちは教科書デザインはまだまだと思ってしまいます。なぜ、教科の中身を深堀りして、そこから湧きでる井戸のように、魅力を発掘・共有できないのでしょう? 教育デザイン力のある人間が現場にいないのかもしれませんね。
 パラパラ漫画に至っては、「東京スカイツリーが建設されていく様子」という見ごたえのあるもののようですが、パラパラ漫画は子どもの専売特許、教科書会社が率先してやることでもないなという気がしています。

 「考える楽しさ」や「知るよろこび」を教えることなく、尻馬に乗っかって児童生徒に迎合しているだけではねぇ。
 もちろん「AKB48」の力で英語の魅力に目覚めて、「将来、英語を使った仕事に着きたい!」という子どもが出る可能性は否定しません。でも、それは「可能性」の話であって、教科書デザインのポリシーとは別の話です。

 このあたり、教科書はもっと骨太のコンテンツを提供し、誘因力発揮は現場の先生方にお任せするという役割分担がスマートな気がします。

『子ども半減 どんな学校』(朝日新聞)に思う

 2012/3/25の朝日新聞一面の記事『子ども半減 どんな学校』を読みました。
 ICT利活用の視点から思ったことをメモしておきます(以下、『』内はすべて朝日新聞からの引用)。

 『14歳以下の人口が50年後に半減するとの推計に基づき、過疎地の小規模校が続出すると判断。小中学生が同じ教室で学ぶ複式学級や、高校教諭の小中学校への派遣など、現行制度の枠を超えた仕組み作りをめざす。』

 ということで、かなり先の話とは言え人口減による影響は待ったなしの情勢です。これは教育のみならず、衣食住に関わる経済活動すべてにおいて言えることでしょうけれど。ちなみに関連記事に児童生徒数減少の予測が出ていました。

 思い描かれるイメージの部分を抜粋します。

『「未来の学校」は、こんなイメージだーー。 高齢化が進む山間部の小村。6〜15歳の子ども20人が小中一体型の村立学校に通う。学年の垣根はなく、算数が得意な11歳の子は13歳の子と一緒に数学の授業を受ける。5人の教員が複数教科を掛け持ち、音楽や美術は「芸術科」にまとめ、全学年の共通授業。大人数の方がやりやすい体育の授業は、隣村の学校と合同だ。帰宅後はパソコンを使った通信教育。各自の学習進度に合わせた宿題が出て、採点結果や指導法が教員に送信されるーー。』

 どうです? まさにICTの出番です(笑)。
 複式学級では、おのおのの児童生徒がパソコンで自分の課題に向かい合います。これにはフューチャースクール特別支援学校等で培ったノウハウが役に立つはずです。また他のフューチャースクール実証校では、タブレットPC持ち帰り実証実験も始まっています。
 また離れた教室を結ぶ遠隔授業も現在実証が行われ、日常的に本校と分教室を結ぶ試みも進んでいます。

 時間と空間を越えて場を共有できるのがICTの強みであり、個々の児童生徒に応じたコンテンツ提供のノウハウが蓄積されれば上記のかなりのことは実現可能です。ただ、「指導法が教員に送信される」は余計です(笑)。こういう部分にカチンとくる人は必ず居ますから。

 ICT活用授業の研究成果が上手にフィードバックされ、本当に使える仕組みが構築されることに期待です。

ICT使うべきか使わざるべきか

 「迷うことない、必要に応じて使うべきでしょ!」
 とお怒りの声が聞こえてきそうですが、ことはそう単純ではありません。実証実験での話。

 フューチャースクールにせよ、教育スクウェア×ICTにせよ、あるいは絆プロジェクトにせよこれらは学校におけるICTの実証実験です。使ってみないことには実証データが取れないという十字架を背負っています。

 一方で「児童生徒はモルモットじゃない」という声も聞こえてきます。ごもっとも。
「この機能は使わない(使えない)」「このソフトは使わない(使えない)」となっている学校、先生方もいらっしゃいますね。
使いづらいものを無理してまで使う必要はないと思います。

 でも、その判断がとことん付き合った結果なのか、ちょっと触っただけなのかが実証実験では重要だと思います。

使えるレベルに至ってないコンテンツを使う際に、不発に終わった時のことを考えてBプランを用意して下さる先生もいらっしゃいました。
頭が下がります。

単に「使えない」ではなく、「ここが使えない」というふうに語って欲しいですね。そうでないと遅々として改善が進みません。

それから、「こんなふうに使うといいよ」とか「このソフトのここは使えるよ」とか「こういう授業をしてこういう効果が出てきたよ」といった情報共有ができれば開発側のモチベーションも上がると思います。

全否定ではなく、部分否定。

 ICT利活用のためにする授業ではなく、授業のためのICT利活用をして頂きたい。そのためには実証実験により多くの先生方が参加してICT活用授業の開発を加速して欲しい。

 先生方の忙しい状況も理解しつつ、ICT活用が進むことを願っています。

「特典」への違和感

 まだうまくまとめられませんが、ニュアンスだけでも伝えようとこのエントリを起こしました。

 本日(3/29)付の朝日新聞に某有名大手家庭教師派遣会社が一面広告を打っていた。

 キャッチコピーがいい。
 「90万人と培ってきた1対1の指導品質。」
 本当にいいコピーだと思う。自信の現われ。私が中高生の親なら、このコピーだけで検討始めるレベル。

 でもちょっと待った!

 下の方、これはナンですか?
 今はやりのアイドルグループの「スターターキット」?!
 これで一気に興ざめ。
 トップコピーとの落差がここまで大きい広告は久々に見ました。
 見た瞬間に、はいはい、と紙面を閉じちゃいましたよ(写真を撮って)(爆)。

 このアイドルグループを使った「自殺防止キャンペーン」が非難を浴びたことは記憶に新しいですが、目的のためには手段を選んだ方がいいのでは?と思う場面もしばしばあります。

 例えば野球。
 メジャーリーグで始球式を勤めるのはかつてのメジャーOBたち。
 リスペクトされ、野球という枠の中で「宇宙」を形成しています。
 一方、日本で始球式に呼ばれるのは他の業界の有名人や、タレント、アイドルたち。
 その上ホームベースまで球が届いた、届かないと一喜一憂している様は本当に野球が好きな人なら興ざめです。
 往年の名選手が登場した方がうれしいのは私だけでしょうか?

 本来サービスで始めた特典が主になってしまう、違和感を与えるというのは本末転倒ですが、人々の耳目を集めさえすれば手段を問わない、というケースが目につきます。

 その萌芽はン十年前、スナック菓子に付けられた特典の「仮○ラ○ダーカード」欲しさに、買ったスナック菓子をその場に捨ててカードだけ持ち帰る子どもたちが問題視された時代までさかのぼるのかもしれませんね。

 と、おまけ欲しさにペットボトルや缶コーヒーをよく買う私がつぶやいてみました(笑)。

児童生徒アンケートの分析

 今年度のフューチャースクール授業もそろそろ総務省へ報告を上げる時期になってきました。
 K市の特別総合支援学校も例外ではありません。

 私もアンケート・システムログの調査分析を進めています。
 正式なものは総務省から公開されますからそちらをご覧頂くことにして、一点だけ。

 年度途中から始まった事業で、児童生徒にアンケートを実施した時期は2月の下旬。子どもたちは、実質1ヶ月ほどしかシステムに触れていないのですが、なるほど、と同意できる結果が出ています。
 例えば、「パソコンを使った授業は楽しい」と100%の子が肯定的に捉えているものの、多くの子がまだまだ機器の使いにくさを感じています。

 ICT活用授業に否定的な方は、「こんな機器は使えない→授業は黒板とチョークが良い」と「機器の否定=ICT活用授業の全面否定」に走ってしまいます。
 が、上記の結果など見ていると、子どもたちはパソコンを使った授業を楽しみにし、まだこなれなくて使いにくい点を甘受しつつ、その可能性を感じているように思うのです。だからもっと使えるような機器・アプリケーションに改良していって欲しいと強く思うし、それを検証することがフューチャースクールの意義だと感じています。
 前年度の結果も公表されており、2年目ですからもう少し踏み込んで報告書を書けたら、と思います。

・「総務省 フューチャースクール推進事業

 1回の結果だけでは確かなことは言えません。
 継続して調査・分析を行い、ICT活用を運用も含め、カイゼンしていって欲しいと願います。

児童生徒向けコンテンツの「デザイン」問題

 今日も昨日までの流れをすこし引っ張ります。テーマはタイトルの通り。

 昨日までのエントリで「単に高機能・多機能を追及するのはいかがなものか?」と言ってきましたが、児童生徒が利用するコンテンツでは、さらに一歩踏み込んだ議論が必要と考えます。

 どういうことか?

 例えば、算数の立体図形を学ぶコンテンツでは、3D表示の立体図形をぐりぐり動かしたり、面、辺、頂点をマーキングしたり、展開図とそれを組み立てた立体を行ったり来たりと、さまざまな機能を持ったものがあります。

 問題は2点あります。

 ひとつは、複雑な機能を実装してしまうと端末(アプリ)が不安定になりがちです。教室でひとりひとりが端末操作を行うケースでは、誰かひとりの端末がフリーズしてしまうと授業がそこで止まってしまうこともしばしば。これがICT支援員の大きな悩みの一つです。

 もうひとつは、子どものおもちゃになってしまうということ。

例えば、マーカーの色を児童が好きに選べる、それ自体は楽しいことです。が、今度は色を取っかえひっかえして遊び出す児童も出てきます。あるいは操作するのが面白くて、興味関心がそちらへ向いてしまう。
もちろん、多機能化のためにする多機能化は論外です。
クラス運営の問題も大きいのですが、いろんな先生が、様々な環境で使うわけですから、授業に必要な機能にフォーカスしたデザインも必要ではないか、と思ったりもします。

このあたり、徐々に知見が集まり始めてると思いますがいかがでしょう。

プラットフォームとしてのICT

昨日のエントリの続き。

新しいiPadを巡る一部のTweetなどネット上の意見を見て、未だプラットフォームが確立されていない小中高のICT活用教育の現場を想起しました。

児童生徒1人に1台のタブレット/パソコン環境というのは要不要も含め検証段階なのでそれ自体いいも悪いもありません。

ここでいくつかの環境を俯瞰してみると、
(1)フューチャースクール:WindowsタブレットPC
(2)絆プロジェクト:iPad、WindowsタブレットPC
(3)教育スクウェア:Androidタブレット

プラットフォーム黎明期なので、カンブリア紀のように様々な冒険があってもいいと思います。

 ただ、多機能、高機能が目的化している現状には不満を覚えます。

 例えば、多機能過ぎて児童生徒への提示操作にとまどうインタフェースのデジタル教科書。
 例えば、ふだん使用しない機能を充実させ、「書きやすさ」はなおざりなままのIWB。

 もちろん、目に見える機能を充実させた方が製品は売りやすいでしょうし、展示会では見栄えがします。
 でも現場からのフィードバックをないがしろにしていいとは思えません。

 あるIWBメーカーの方に言った事があります。
 「すべての先生が喜んで御社のIWBを導入したくなるヒントを差し上げましょうか?」
 「はい、なんですか?」
 「ペンやチョークの書き心地の実現、それだけです。」
 担当の方は目を丸くしていました。意外なヒントだったのかもしれませんし、それが難しいんですと言いたかったのかもしれません。

 しかし、プラットフォームとして、バージョンアップの度に新機能が欲しいわけではないのです。

 ささやかでもいい、使い勝手を向上させて下さい。
 プラットフォームとして、ICT環境は透明な存在になって欲しい。

 熟成、という言葉の意味を再確認させてくれた、新しいiPadではありました。

こんなiPadを待っていた?

 しつこく一昨日のエントリの続き。

 今回発表のiPadに不満な人々は、こんな製品を期待したのだろうか?

・「PadFone(ASUS)

 確かに、スマートフォンをタブレットに収納し、タブレットはキーボードと合体してノートパソコン(ライク)になる、というのはおもしろい! スマホで見ていたコンテンツを拡大して見たい時にタブレットに挿入するだけ、とか。

 ここだけみればワクワクする製品だし、触れてみたいと思う。けれど、アプリ(コンテンツ)を載せるプラットフォームとして考えなくてはいけないことがあります。

 ひとつはプラットフォームとして、コンテンツベンダーが魅力を感じる台数だけ普及するか。プラットフォームのパワーは数。ある程度の数が出ないと多くの企業は乗ってきません。

 もうひとつは新機軸を追いかけて、互換性のない新機能が搭載されはしないか。例えば、ディスプレイの解像度が上がること自体は歓迎すべきだけど、新機種が出るたびに解像度が上がるのではコンテンツ制作側はつらいですよね。

 今やiPadは世界で5000万台以上普及しているプラットフォームです。
 ですからちょっとした思いつきで新機軸を投入できるわけではない。引き継ぐべき過去の遺産を負っているので「冒険的な精神」が失われた(かのように見える)製品が出るのもやむを得ない面はあるでしょう。

 だから次のiPadを見る意味があるのです。

 次の記事も参考になると思います。

・「新しいiPad”が追求したスペック以上の魅力

 実はこの話、ICT支援教育とも重なる部分があるように感じます。
 また稿を改めます。

最後の京都出張

 私事ながら、今月末で現在の会社を退社します。

 ということで、今挨拶回りがけっこう入っていたりするわけでして。

 本日は定例会と引き継ぎという用向きで京都出張がありました。

 とりあえず公開授業をきちんとこなし、来年度に向けた準備をするというロードマップ上にいる学校を置いて出て行く、というのは心残りではあります。が、しようのないことでもあります。

 やるべきことをやり、伝えるべきことはきちんと伝えた上で私は次のステップを目指します。

 お互い進んでいけばまた道が交わることもあるでしょう。
 その時にはまたなんらかの知見を伝えられるよう精進していたいですね。
 また、業務は終わっても繋がった人と人の縁は簡単に切れないとも思っています。

 支援員のI君、また会えますよ。

 その日を楽しみに、今はお互いのやるべきことをやりましょう。
 先生方のサポートよろしくお願いします。

 それでは。また会う日まで。