プラットフォームとしてのICT

昨日のエントリの続き。

新しいiPadを巡る一部のTweetなどネット上の意見を見て、未だプラットフォームが確立されていない小中高のICT活用教育の現場を想起しました。

児童生徒1人に1台のタブレット/パソコン環境というのは要不要も含め検証段階なのでそれ自体いいも悪いもありません。

ここでいくつかの環境を俯瞰してみると、
(1)フューチャースクール:WindowsタブレットPC
(2)絆プロジェクト:iPad、WindowsタブレットPC
(3)教育スクウェア:Androidタブレット

プラットフォーム黎明期なので、カンブリア紀のように様々な冒険があってもいいと思います。

 ただ、多機能、高機能が目的化している現状には不満を覚えます。

 例えば、多機能過ぎて児童生徒への提示操作にとまどうインタフェースのデジタル教科書。
 例えば、ふだん使用しない機能を充実させ、「書きやすさ」はなおざりなままのIWB。

 もちろん、目に見える機能を充実させた方が製品は売りやすいでしょうし、展示会では見栄えがします。
 でも現場からのフィードバックをないがしろにしていいとは思えません。

 あるIWBメーカーの方に言った事があります。
 「すべての先生が喜んで御社のIWBを導入したくなるヒントを差し上げましょうか?」
 「はい、なんですか?」
 「ペンやチョークの書き心地の実現、それだけです。」
 担当の方は目を丸くしていました。意外なヒントだったのかもしれませんし、それが難しいんですと言いたかったのかもしれません。

 しかし、プラットフォームとして、バージョンアップの度に新機能が欲しいわけではないのです。

 ささやかでもいい、使い勝手を向上させて下さい。
 プラットフォームとして、ICT環境は透明な存在になって欲しい。

 熟成、という言葉の意味を再確認させてくれた、新しいiPadではありました。